きっと十年くらい前になると思う。
一冊の厚い本を買った。「山頭火全句集」である。
これは一万円くらい値段がしたように思う。
山頭火の名前は以前から知っていた。
自由律俳句。自由な律・・・つまり自由なリズムの俳句ではなくて
それこそ「自由な」俳句だと勘違いしていた。
どうしようもない私が歩いてゐる 山頭火
今もその勘違いを少しひきずっているというか
じっさい、山頭火の自由律俳句は自由俳句であると思っている。
*
統合失調症でたいへんな時期を過ごしたが
父が「何か興味を持ったものを持っていた方がいい」というので
自由律俳句結社「海紅」に入った。
同時に、自由詩にも夢中であったから、「海紅」はよしてしまったが
(お金がないという実情もあった)
ずっと自由律俳句というか、自由俳句は続けている。
もうかれこれ十年は続けているという事だ。
こんなに続けられている事は他にない。
*
自由律俳句を、書き上げていった。
今、わたしが思うのは、現代、そんな生き方はできない、という事だ。
以前は旅する山頭火に惹かれ
今、わたしが追って読んでいるのは、庵を結んだ「暮らし」の中から
書かれた句たちだ。
「安心」。
一か所に住み暮らし、脅かされる事のない生活。
それをもうわたしは獲得している。
大丈夫なのだ。
その大丈夫を、只、書きとめてゆけばいい。
*
しかし本当に大丈夫なのか。
私は精神疾患を患っているし、さいきん、鬱に、トラウマによる過剰な覚醒を
自己に見出した。
煙草はやめられない。といって、破滅的に自己を当て嵌めるのも
こころの不健康であるだろうから
そういう不幸な自分というのを、過度、演出するような句は、もう、
──大人なのだから、
書きたくはない。
私は現在に於て、充分満足できればいいと願っている。
一日、一日は、点、に過ぎず
その点の連続で線ができている。
弱ったり、励ましたりするわたしであるが・・・
只、今日を生きたい。
そうしてお前はもう、自由律俳句の道を行け、と
こころの、プロペラが唸っているのだ。
春陽来たぞ胸のプロペラをまわそう 濁水