自由律俳句の道

 

きっと十年くらい前になると思う。

一冊の厚い本を買った。「山頭火全句集」である。

これは一万円くらい値段がしたように思う。

山頭火の名前は以前から知っていた。

自由律俳句。自由な律・・・つまり自由なリズムの俳句ではなくて

それこそ「自由な」俳句だと勘違いしていた。

 どうしようもない私が歩いてゐる 山頭火

今もその勘違いを少しひきずっているというか

じっさい、山頭火の自由律俳句は自由俳句であると思っている。

統合失調症でたいへんな時期を過ごしたが

父が「何か興味を持ったものを持っていた方がいい」というので

自由律俳句結社「海紅」に入った。

同時に、自由詩にも夢中であったから、「海紅」はよしてしまったが

(お金がないという実情もあった)

ずっと自由律俳句というか、自由俳句は続けている。

もうかれこれ十年は続けているという事だ。

こんなに続けられている事は他にない。

種田山頭火という俳人は、各所を転々として(行乞流転)

自由律俳句を、書き上げていった。

今、わたしが思うのは、現代、そんな生き方はできない、という事だ。

以前は旅する山頭火に惹かれ

今、わたしが追って読んでいるのは、庵を結んだ「暮らし」の中から

書かれた句たちだ。

「安心」。

一か所に住み暮らし、脅かされる事のない生活。

それをもうわたしは獲得している。

大丈夫なのだ。

その大丈夫を、只、書きとめてゆけばいい。

しかし本当に大丈夫なのか。

私は精神疾患を患っているし、さいきん、鬱に、トラウマによる過剰な覚醒を

自己に見出した。

煙草はやめられない。といって、破滅的に自己を当て嵌めるのも

こころの不健康であるだろうから

そういう不幸な自分というのを、過度、演出するような句は、もう、

──大人なのだから、

書きたくはない。

私は現在に於て、充分満足できればいいと願っている。

一日、一日は、点、に過ぎず

その点の連続で線ができている。

弱ったり、励ましたりするわたしであるが・・・

只、今日を生きたい。

そうしてお前はもう、自由律俳句の道を行け、と

こころの、プロペラが唸っているのだ。

 

春陽来たぞ胸のプロペラをまわそう 濁水