山頭火と老子

山頭火老子

 

1.山頭火、「水」への固執

 

まず山頭火といえば「うしろすがたのしぐれてゆくか」を代表例に、時雨、雨、という物を念頭に置く。

時雨、雨、というのは水の変化したものなのだけれど、「へうへうとして水を味わう」を

筆頭に、山頭火には、水、を句に詠みこんだものが多い。

頭に「水」を冠した句に限り数えるけれど、「山頭火全句集」の牽引、739~740頁、二頁にわたって200句ほどある。頭に「水」を冠していないものを含めれば、もっと出てくる筈である。

そうして、旅した山頭火が自身の庵を持って落ち着くとして、条件というか要望を書いているけれど、まず、温暖な土地柄である事、そうして「水がいいこと」を挙げている。そうして温泉があれば上々であると書いているのであった。

 

また「水」に関して山頭火は「淡如水」(淡く水の如く)とも大書しており、句集「行乞途上」のあとがきにこう書く。

 

私は酒が好きであり水もまた好きである。昨日までは酒が水よりも好きであつた。今日は酒が好きな程度に於いて水も好きである。明日は水が酒よりも好きになるかも知れない。

「鉢の子」には酒のやうな句(その醇不醇は別として)が多かった。「其中一人」と「行乞途上」には酒のやうな句、水のやうな句がチャンポンになっている。これからは水のやうな句が多いやうにも念じてゐる。淡如水──それが私の境涯でなければならないから。

 

水が好きだけれども自身も「水の如くあらねばならない」と書いているのであった。

 

 

2.ロシア文学道教、そして禅

 

なぜ、ここまで山頭火は水に固執するのか。例えば彼が禅僧であったから、「雲水」という言葉があって、その生き方をそもそも水の如くしたいと思っていたとしても不思議ではない、と返答がありそうだけれど、ではなぜ彼が禅僧になったかというと、酒に酔って電車の通行を阻害、乗客にリンチにあいそうなところを、知り合いの新聞記者の介抱によって、きっとその地域コミュニティでは、リザベーションというか、困った人間がいたら保護してやる、といったお寺に放りこまれたからである。

 しかし、山頭火からすれば結局、味取観音堂の堂守になるのだけれど、もしも、山頭火に確固としたライフデザインみたいなものがあれば、これは想定外の事、ではあるのだけれど、何か不思議な縁、のようなものがある。

その、山頭火の父がまだ行方不明になっていなかった時期、父から見合い結婚をさせられるのだけれど、そのとき「私はいつか禅僧になるから、結婚なんかしない」旨、発言しているのである。

 そのまだ俗世で何とかやっていた時期の山頭火を想像すると、半ば強制的に禅の道に入らざるを得なかった以前に、禅の影響を受けていた。

ただし、その禅僧になるというのも、なれたならばいいな、という夢というか朧な願望であって、まさか本当に後に禅僧になるとは思いもよらなかったのではないかと思う。

 だから、先の、水への固執、というを、そのおおもとを、私は出家以前の山頭火に求めたいと思う。

 山頭火ロシア文学が好みというかツルゲーネフの小説を翻訳して発表したりしていた、まあ、いわばインテリであった。

 肝心のツルゲーノフを私は読破できていないし、ロシア文学というのも畑が広いが、例えばその多くに中国の道教の世界観が根底にある、と言われている。

 そうしてその道教なのだけれど、原始仏教が中国に渡った際、詩的に語り尽くし、お釈迦様を称賛するインドの原始仏教というのは、中国人の国民的素質に合わなかった。

 そこでお釈迦様の「悟り」などの重要なキーワードは外せないけれど、色々試行錯誤がされて、達磨から慧能をへて展開された「中国仏教」が「禅」であり、だからそこには否応なく道教の影響というのは過分に含んでいるのである。

 つまり、山頭火は、若い頃、大好きなロシア文学から、バック・トウ・ルーツする形で道教の薫風を受けていたのではないか。

 で、あるからして、当然、道教の影響を色濃く魅せる禅、というものは当然押さえていたのではないか。

 そうならば、やっぱり明治時代の人のリテラシーというか、インテリぶりは怖しいものがあるけれど、山頭火の場合、度を越している。

 

3.山頭火老子、水の思想

 

道教と一言で言うけれど、老子荘子のいう「道(タオ)」は違っていて、もしも山頭火道教の影響を受けていたらば、私は山頭火の道は先に触れた水、の思想家であって、老子の方の、道ではないかと考えている。

老子が、かつて、都で書物を読み漁っていたけれど、都のモラル低下に嫌気がさして、隠居しようと牛に乗っていってしまう。そうすると、関所の人物に、先生、本当の生きる道とは何か教えて下さい、という願いによって書かれたのがかの「道徳経」である。

道徳経はだから、そのときの老子の心情を反映してか、とても消極的というか一見弱々しい内容となっている。寧ろ、地方での隠居生活を肯定する内容で、牧歌的とも評される。

 

私は今まで様々な山頭火関係の書物にあたってきた。

山頭火に対して「馬鹿野郎とげきを飛ばしたくなる」とまで書かれた本も出ているけれど、私は、老子の教え、弱弱しく、また牧歌的でもありつつ、それは大国主義の反対というか、明治の富国強兵、又、立身出世に代表される気風、また昭和のビッグ・ライフ、ビッグ・ドリーム、といった気風と山頭火の根底思想の、それはすれ違いによって起こっていると考えている。

只、私が何か山頭火に言いたいとすれば、老子の一番大切な物は何かというとそれは「命」になるのだが、最晩年の日記、一草庵日記に落ち着くまで、水をたたえ、水のように自在に形をかえて生き延びる事を目的としつつも、結局精神の病だろう、自分の「命」を粗末にしている箇所が見受けられるのはやれない、ということだ。

 

成人の60%は水である。赤ん坊の70%は水である。赤ん坊の方が世界に対して開いている。何に対しても興味津々である。エネルギーの塊である。

加えて書けば、水で炊きあげたお米一粒一粒に対して、その光りを、山頭火の言葉を借りれば「有難い」と感じ、山頭火は噛みしめて食べていて、それを丁寧日記に書いている。

 

 

4.句の弛緩と放哉との違い

 

なぜ山頭火が水に固執するのか。

ロシア文学─(道教)-禅 とラインをひいたときに、この(道教)から老子を誇張すれば自然と見えてくるのではないか、と主張させていただいたが、御一考願いたい。

 

最後に山頭火の句について述べさせてもらうが、もう一人の自由律俳句の巨人が尾崎放哉だとして、彼の句に比べて山頭火の句は弛緩しているというか、間延びしている印象を受ける。

尾崎放哉にも句のいい時期、悪い時期とあると思うが、いい時期の放哉は「鋭い」といった印象さえ受ける。凝縮されている。凝っている。

 

山頭火の句を検証してみるとそれが自由な律で詠む、自由律俳句でありつつある種の「定型」パターン、「山頭火パターン」を作ってしまっている。

音数律でいえば

五/七/五

五/七

七/五

七/七 といった所だ。

山頭火の書いた短冊を読むと

 

鉄鉢の(五)/

とちょっと「気」を乗せた後で

中にも霰(七)

 

で、一気に「書き落として」書いているようだ。

 

つまり自分の気持ちを乗せる「定型」のパターンを四つくらい持っており、あとは状況に応じて、パターンと眼前にあるものをとっかえひっかえしてゆく。

この半無限に句を創作できるスタイルだから、放哉のように一句に集中する意識は、残念ながら欠いてしまう。

 

なぜそうなってしまうのかというと、尾崎放哉、種田山頭火共に、萩原井泉水の弟子なのだが、尾崎放哉の場合、まだ自分の射程距離内に萩原井泉水を指導した、河東碧梧桐が入っていた。

 

河東碧梧桐─萩原井泉水─尾崎放哉

 

しかし、山頭火の場合、単に井泉水を仰いでいただけだ。

 

萩原井泉水─種田山頭火

 

河東碧梧桐が抜けてしまうと、その細やかな自由律俳句の音律意識、律の多様性を追求する気概が抜けてしまう。

よって、山頭火は単に自己の「山頭火パターン」を生むと、そこに何を載せるか、という「生活上の事」を考えるというか、そもそも生活に大変な立場でいつづけたが、放哉と比べて、音律に、弛緩、を生んでいる印象が強くなってしまったのである。

 

その「山頭火パターン」への急激な変更は、味取観音堂の堂守になって懺悔、自戒の日々をへて成されているのは注目に値するだろう。

禅の生活によって同じ題材を歌っても、牧歌的になる。句は弛緩する。それがある種の悟りなのか、開き直りなのか、それをどうやって私に分かろうか。