濁水、とは私の妻がつけてくれた俳号であり、ペンネームである。
濁水の語に妻は人間を見て、私は濁水の語に親鸞の人間観を見い出す。
つまり、全ての人間は心の中に蛇やサソリを飼っている、というアレである。
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統合失調症、発症時、私は「清い人間」になりたくて仕方なかった。
しかし無くて七癖というが、私の諸々の悪癖を鑑みるに、「清い人間」
つまり、透水、には程遠いと思う今日である。
私は悪人である。
しかし少なからず善もあるだろう。
極端はいけない。
このテクストは、妻が私に対する理解が至っていないので
その反省として書いた側面がある。
只、語が良いから、濁水と名乗っているのではないのである。
言ってしまえば人間、濁水と透水の混じり合いである。
こころが清い、とは、その配分の加減に他ならない。