雑記:発展途上、私と文学と自由律俳句

今朝は空腹で目が覚めた。

米は炊いていなかったので、今、炊いている。

空腹を、アイスコーヒーと煙草でごまかした。それにしたってやりきれない。

キッチンの上が汚かった。

私が掃除するより他無かった。

空腹で、いらいらしながら、それを行った。

妻の、朝の、歌のおけいこさえもいらいらした。

文学が私の道だった筈だった。それを楽しそうだからと横入り。

それでつづかないと、嫌になってしまうだろう。

でもそれが私に関わる問題じゃない。

文学をやるにはそれだけの意味や意図があるんだよ。

そうじゃなきゃ、何か月も自由律俳句を書きつづけるか?

さいきん、本当に他者との関係性を見直している。妻とも。

空腹でいらいらしてしまった。

日本人の「葉隠」の思想は「徹底すること」にあるのであって

あれこれ手を広げる事とは、反対だ。

私の文学は、マルチタスクを否定する。

只、一年発起、南無阿弥陀仏からの、「書きつめる」事だ。

そうしないと書く事がつまらなくなる。

楽しいとさえ思えないだろう。

さいきん、ほんとうに追いつめられている気もするが

不満からくる、被害妄想だ。

じっさい、私は妻から数々の恩恵を受けている。

今日も妻が私の服を洗濯してくれたし、素晴らしいバラードを聞かせてくれた。

妻の愛情には死を以って償うべし!

つまりこれからは(これからも)妻の為に生きるという事!

そして文学がある。自由律俳句がある。加えてアルバイトがある。

「結局、田中濁水は討ち死にだった・・・何も遺せなかった」

では済まされない。

いや、じっさいには済まされてしまうのだ。

しかし私は、この私は、あの種田山頭火も死後評価高くなったことを知っている。

発展途上。文学。自由律俳句の道、待ったなし!